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広島オリーブ会と原爆慰霊祭について

2014慰霊祭写真02

2014慰霊祭写真03


 広島オリーブ会は昭和61(一九八六)年1月に設立されて以来、今年で30年目を迎えました。これまでさまざまな活動を行ってきましたが、会員の皆さんの中には「同窓会の案内にある橘香会とは何なの?」「福山の学校がなぜ広島で原爆慰霊祭を行うの?」などの疑問を持たれている方もいらっしゃることと思います。今回は附属福山の生い立ちのおさらいから始めて、橘香会と合同活動の経緯を簡単に振り返ってみたいと思います。

山中高等女学校の歴史


◆戦前
 山中高女は明治20(一八八七)年12月、「健全な子女を育成する」との方針のもと全国で3番目の高女として、当時弁護士で県会議員であった山中正雄氏が中心となって私財を投じて創立されました。教育方針は「柔而剛(じゅうにしてごう)」。当初の校名は「広島高等女学校」でしたが後に「県立」広島高等女学校ができたため「私立山中高等女学校」に改名されました。(ちなみに安田学園を創設した安田リョウ氏も山中の卒業生で、安田の校訓「柔しく剛く(やさしくつよく)」も山中の校訓の影響があるのではないかといわれています)
 山中高女での教育は着実に発展していきましたが、特にスポーツ面では全国優勝(卓球・リレー・円盤投げなど)も数多く達成し、オリンピック選手も輩出しました。そのほか各界で活躍する多くの優れた卒業生(たとえば杉村春子)を輩出するなど、広島県の女子教育に大きな貢献を果たしてきました。

◆女高師附属高女へ
 時は流れ日本は太平洋戦争に突入しました。戦局が日本にとって厳しくなりつつあった昭和20(一九四五)年4月、当時の理事長山中トシ氏が、全盛期にある「山中」をさらに一歩進んだ女子教育機関とするべく決断され、山中高女の校舎、敷地、施設等をすべて国に寄付し、山中高女は当時できたばかりの広島女子高等師範学校(現在は広大)の附属山中高等女学校となりました。開校以来58年間、1万1千人あまりの卒業生を世に送り出した私立学校としての歴史を閉じ、教師や生徒はそのまま引き継ぎ再出発しました。
 そして原爆投下の8月6日を迎えました。原爆の惨禍は、校舎だけでなく生徒・教職員にも及びました。附属山中高等学校女学校全体では、397人(内教職員5人)にのぼる多数の犠牲者が出ています。中でも、8月6日の朝、雑魚場町(現国泰寺町1丁目)で建物疎開作業をしていた1・2年の生徒333人、引率教官3人、合計336人が被爆し、333人の尊い命が奪われたのです。(広島大学附属福山中・高等学校 五十周年記念誌より)

◆安浦へ
 終戦を迎えた後の昭和20年12月、女高師と附属高女は安浦町(現呉市安浦町)の旧海軍海兵団跡地に移転。昭和22(一九四七)年4月、学制改革により広島女高師附属中学校が成立しました。翌昭和23(一九四八)年4月には同附属高等学校が成立し、このとき新制の国立学校には個人の名称をつけないこととなって、「山中」の名前が削除されました。このころは劣悪な環境での授業再開となったわけですが、「山中」の名前がなくなり国立学校となったことや、多くの旧山中の教職員が去り、教職員が一新されたことなどから急速に「山中」色が消えていきました。この後、昭和24年4月まで毎年新入生の募集は安浦町で続きました。

附属福山の誕生


◆青年師範附属
 附属福山の前身には、今まで述べた旧山中の系統とは別の流れがあります。
 現在の安芸高田市に広島青年師範学校(国立)があり、昭和20(一九四五)年4月近隣の4カ村組合立青年学校が国に移管され、広島青年師範学校の附属青年学校となりました。昭和22年4月学制改革により附属青年学校は県に移管し、新たに附属中学校が設立されました。同年6月、親にあたる広島青年師範学校と、子にあたる附属中学校は地元福山の人々の熱心な誘致もあって、福山市沖野上町(現緑町)に移転し、第1学年は募集、2・3学年は当時福山にあった福山市立実践女学校、福山市立実業学校からの編入で発足しました。翌昭和23年4月広島青年師範学校附属高校が設立され、生徒は福山市立実践女学校、福山市立実業学校および福山市立高等学校から編入しました。
 また昭和24年6月には広島大学が設置され、女高師、青年師範学校もこれに包含されました。

◆附属福山の誕生
 昭和25(一九五〇)年4月、広島大学広島女子高等師範学校附属中学校および同高等学校は第1学年を福山市で募集し、場所も福山市沖野上町(今の緑町)の旧陸軍暁部隊跡地に移転しました(中・高とも第2・3学年は卒業まで安浦で存続)。それと広島大学青年師範学校附属中学校の第2・3学年および同高等学校第2学年とが合体しました。
 翌昭和26(一九五一)年3月広島大学青年師範学校附属中学校および同高等学校が廃止され、同年4月広島大学教育学部附属福山中学校が成立。続いて昭和27(一九五二)年3月、広島大学広島女子高等師範学校附属中学校および同高等学校が廃止され、4月広島大学教育学部附属福山高等学校が成立。ここに現在のような形の附属福山中・高校ができました。
 このように附属福山の生い立ちは、戦後のさまざまな学校の流れを汲みながらできています。このため、オリーブ会の会員は附属福山高校の卒業生はもちろんですが、昭和27年4月以前、広大附属福山高校ができる前に卒業された①昭和25、26年以降福山で勉強した女高師付属高の方②広島大学青年師範附属高のままで卒業した方③広島青年師範学校附属高のままで卒業した方 で構成されています。広大附属福山高校としての卒業生は、第1回が昭和28年3月ということになります。

「橘香会」と広島オリーブ会


 これまでみてきたように、附属福山の前身の一つが旧山中高女で、山中高女は戦前戦後校名を変えながらも、1万1千人の卒業生を世の中に送り出してきました。その同窓会を「橘香会」といい、広島、東京、海外などで総会を毎年開いてきました。ここ広島でも100回以上の歴史を重ねてきています。福山の母校の校内に平成8(一九九六)年、山中正雄翁頌徳碑が移設されたころから、互いの会員の中に山中と附属の関係が改めて認識されだしました。
 平成11(一九九九)年から広島オリーブ会にとって、先輩がたの同窓会ということで橘香会総会へオブザーバーの形で参加し、以後相互に総会に参加して交流を深めてきました。こうしたなか、橘香会としては学校がなくなり新人が入ってこないため、会員も次第に減少かつ高齢化していき、総会を運営する人の負担も大きくなったため、単独での総会開催をあきらめ、広島オリーブ会に総会の共同開催の協力を求めてこられました。このことをオリーブ会員に諮ったのち、平成17(二〇〇五)年から共同での開催をしてきました。平成27(二〇一五)年総会は広島オリーブ会は第31回、橘香会は第126回となります。広島オリーブ会は橘香会の会員がゼロになるまで、合同の総会を続けていかなくてはならないと思っています。

◆オリーブの木を山中高女の「橘」の木のとなりに記念植樹
 広島オリーブ会総会20回を記念して会員から浄財を募り、オリーブの木を2本記念植樹しています。場所は山中高女の校舎があった場所近くの、中区千田町2丁目の千田第一公園内で、山中高女の記念樹「橘」の木の隣に並べて植えてあります。「オリーブ会は橘香会の後輩としてちゃんと後を継いで行きます」という意味も込めているのです。平成26(二〇一四)年には植樹の銘板を会員の寄付により更新しました。

原爆慰霊祭と広島オリーブ会


 前に述べたように昭和20年8月6日の原爆投下により山中高女の多くの教官生徒(石碑の碑文=下段写真=では387人※)が犠牲になりました。残った同級生や遺族らが、慰霊祭をずっと続けてこられました。
 昭和27(一九五二)年8月6日、なくなった方たちが疎開作業をしていた旧雑魚場町近くの荒神堂境内に慰霊碑が建立され、慰霊祭および除幕式が行われました。以後毎年、遺族会・広南同窓会・橘香会の三者合同主催で慰霊祭が行われてきましたが、昭和53(一九七八)年より慰霊祭実行委員会が組織され活動が継続されました。この年から慰霊祭は国泰寺町1丁目町内会が主催することとなりました。この経緯の詳細は不明ですが、荒神堂の例祭を同じ日に町内会主催で行うことから、テント、椅子などの設営を町内会に委ねたと思われます。この慰霊祭実行委員会代表で一連の活動の中心になったのが故小野文子先生(山中および女高師の卒業で、最後は女高師附属の教師もされた)です。慰霊碑の建立場所を、町内会の承諾を得て現場近くの荒神堂境内にされたのも、小野先生の強い思いと尽力があってのことです。主催を町内会に委ね、それまで遺族などから集まった資金を将来の運営資金として町内会に寄託されたのも、慰霊祭の永久的な開催を願ってのことでしょう。
 活動は慰霊祭の施行にとどまらず、死没者の名簿作成や、寄付を募って、会場で使用する机や椅子、それらの収納庫・花立てを町内会に寄贈されました。また過去帳を作成し時々開帳もされました。昭和59(一九八四)年には、慰霊碑横に折鶴の塔を附属福山高から寄贈しました。この翌年以降、毎年附属福山高在校生が慰霊祭に参列し、碑の前で追悼文の朗読を行っています。
 その後も毎年盛大に慰霊祭は行われてきましたが、遺族や同級生も次第に高齢化、少数化してきて参列者も以前ほど多くなくなりつつありました。実行委員会のメンバーも高齢化して準備や運営が次第に負担となりだしました。平成11(一九九九)年から橘香会と交流してきた関係で、広島オリーブ会が慰霊祭の設営等のお手伝いを始めました。そして平成17(二〇〇五)年、実行委員会から正式に広島オリーブ会に対して、運営を全面的に行ってほしいと依頼してこられたので、この年の総会に諮って賛同を得、以後、毎年当番幹事学年を中心に運営していく現在の形となりました。
  ※原爆による犠牲者の数は資料によって異なっているため、人数にバラつきがあります。ご了承ください。

◆(筆者の私見)
 なぜ原爆と直接関係のないオリーブ会が原爆慰霊祭を行うのかについては、一部には異論もありましたが、毎年福山から後継学校の在校生が参列し追悼文をささげているのに、同窓会組織である我々が手伝わずに町内会に全部を委ねるのはやや無責任であると考えました。では誰がすればよいのか。
 本来は広大なり附属福山が、学校としてオフィシャルに慰霊祭を行うべきものとも考えますが、形としては、毎年広大ですべてを包含した形での慰霊祭が行われて来ています。にもかかわらず、この山中高女の慰霊祭は広大とは別の形でずっと営まれてきました。また毎年の平和公園で行われる広島市主催の慰霊祭とは別に、独自に、同時刻に、旧雑魚場町の碑の前で営まれてきました。ここに遺族や残された方々の深い悲しみと、特別な思いがあるのではないだろうか。こう考えると、遺族や残された方々の思いの灯は、簡単には消してはいけないと思います。
 引き継ぐにあたって、オリーブ会が主導して運営するからには、資金的なバックが必要と考え、町内会に寄託している資金を、オリーブ会の管理に移管するよう町内会とも交渉しましたが、小野先生との約束があるためか了承が得られませんでした。碑がある場所を町内から借用していることから、町内会との関係も良好に保つ必要があり、やむを得ずオリーブ会は設営の一部と当日の運営だけを行っています。僧侶へのお布施や供えもの、テント代等の諸経費は町内会が支払っています。
 また、できるだけ無宗教の形で簡素にして意義深いものにしようと考え、読経なし・線香の代わりに献花という形式で二年ほど行いましたが、山中が設立された際のバックボーンの一つが浄土真宗であったということもあってか、読経・線香がないと寂しいとの遺族・参列者からの要望もあり元の形式に戻りました。しかし、この数年、町内会の意向なのでしょう、再び、読経はなくなっています。
 いずれにしても広島オリーブ会として、この原爆慰霊祭の灯をずっとまもっていって欲しいと心から願っています。

(10回生・広島オリーブ会前会長 織田 珖治) 
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